木馬嘶くべからず、石牛奔るべからず 吉田松陰
木馬嘶くべからず、石牛奔るべからず 吉田松陰
まずこの文面読めませんでした。 木馬はいいとしても嘶く(いななく)、奔る(はしる)もわかりませんでした。
現代の生活には馬も牛もいませんから、私にはまったく想像できません。 おやじのころ(昭和8年生まれ)はハトを捕まえて食べていたりしていたそうです。
いまから150年前はふつうに馬もいましたし、牛も飼って農作業を手伝ってもらっていたようです。
まったく想像もできない環境ではありますが、意味は以下の通りです。
木でできた馬はひひーんと鳴きませんし、石でできた牛は走りません。 で?
その真意とは人間として生まれたのであれば意見もいわなあかんし、勉強もせなあかん。
人間なのに、発言や意見しない、努力や勉強もしないのは木偶の坊(でくのぼう)であると。
人間であるなら、暖かい血が流れており、けがをすれば痛いし、傷つけられたら悲しいし、思いが通じればうれしいし、怒ったり、笑ったり、正しいことを正しいといいたいし、間違っていることを黙認したりしたくないですから。
何を大切に生きているのか現れますね。人間として。 私は家族が大切でしたから、命に代えてもいいと思い付き合ってきました。 ま、現代の日本に生きている限りそんなに命をかけることはありませんが。
私は人間として木偶の坊にはなりたくないので、このままいきまーす。