親鸞聖人にはまっています

親鸞聖人にはまっています。

 

念仏をとなえると救われる。実にシンプルな方法で庶民を救ったとされるお坊さんです。

 

和多志が仰天したのが、浄土真宗の祖ですが相当親鸞和尚の考えとは異なっていることをしていたことです。 基本的に仏教はご両親、ご先祖を祀り敬うことが求められています。

 

あの世は暗いので、ろうそくをともして、線香をたき、花をいけます。時には故人の好きなものをお供えしたり、年季と称してお坊さんを呼んで、初七日、1回忌、3回忌というように50回忌まで年季をします。

仏壇をそろえ、お墓もつくります。

 

でも本当にこのことは必要なのだろうかと物議をぶつけたのが親鸞聖人でした。

 

親鸞聖人はそういった行事や常識、妻は娶らないなど当時の常識にたいして正面から立ち向かっていきました。 聖徳太子の霊がということを持ち出さないと、大変なことになったのでしょう。

多くの人が尊敬敬愛する聖徳太子の霊が出てきたというと相当の説得力があったのではないかと邪推しています。

 

いずれにしてもコペルニクス的な行為です。 しかし当時のお坊さんは、隠れて女犯(にょぽん)を冒していましたので、親鸞聖人は堂々とやっただけなんですが。

 

今も当時も、人を不安にさせつぼを買わせたり、仏壇、お墓、年季をさせるのはやり方は変わりないです。

 

和多志が住んでいるところは田舎なので、檀家制度があります。 代々特定のお寺に紐付けされているのです。 年季はもちろん、何か増築、改築するということになると寄付と称した請求書がきます。 

 

まだね、お寺さんが檀家さんに対して感謝の念でも表してくれるとかであればいいのですが、さも当たり前のように請求してくるとようなお寺さんだと檀家抜けたくなりますよね。

 

父が亡くなった時に檀家抜けたと母から聞いて、え?檀家抜けたらどこのお坊さんを呼べばいいんだ?とパニックになりましたが、両親が檀家抜けてくれたのでよかったですが、和多志の代で檀家を抜けるということはようやらなかったと思います。

まあなにか腹立つことがあったのでしょう。

 

ブッタが説いていた仏教はインドから中国を経て日本に来て広がりましたが、もうブッタの教えは歪められ、書き換えられ、宗派がたくさんでき、仏教は単なる支配の道具となってしまいました。

 

これが現在寺の荒廃が直面している実態ではないかと思います。 お寺は交流の場であり、コミュニケーションのプラットフォームであり学習の場であり、教育の場であったのではないかと思います。

それが全く機能せず、年季と葬式、施すこともなく、拝金主義に陥ってしまったのでしょう。

 

現代は宗教はマーケティングと称して人を不安にさせ、購買意欲を掻き立てる手法は全く変わっていません。

 

うまい話と不安になるような話にはご注意ください。