認知症になる人ならない人
認知症になる人ならない人
最近知ったのですが、知能には流動性知能と結晶性知能があるようです。
しらんかったなあ
流動性知能とは、新しいことを学んだり、問題を解決したりする能力だそうで、20歳半ばごろにピークとなり、どんどん低下していき、60歳半ば前後で低下していってしまう知能だそうです。
結晶性知能は、今まで生きてきた経験や学びから獲得して知能です。言語能力や洞察力、理解力のことをいいます。この知能は、20歳以降も上昇をつづけ、高齢になっても低下することはありません。
高齢者の知的能力は、流動性知能と結晶性知能の両方に影響されます。
結晶性知能は、認知症予防や症状の抑制にも重要な知能と言われているのでとても大切な知能です。
なかなかこの2つはわかりにくいですが、認知症にならない人は好奇心旺盛で自ら経験したり、出かけて行ったりインプットを欠かさないです。
一方なりやすい人は、常に同じことを繰り返して新しいことをまったくされない方でしょう。
日々がパターン化されており、考えなくても、悩まなくても、毎日生きている人。 同じ事、同じ食事、同じ道、同じ人、脳には刺激がなく、ほぼ一日無意識で生きていける状態の人です。
和多志が思うにこのようにパターン化することは日々の日常ではなく習慣付けしたほうがいいことにしたらよろしいかと思います。
筋トレ、散歩、読書時間、などなど。最近思うのに、習慣と儀式の関連性を見た気がします。 儀式はある一定のルールにそってやる行為であります。習慣をより高め、高尚にしていけば儀式になるのだろうかなと。
たとえば、ご先祖様への感謝の儀式として、和多志はおついたちと称して毎月1日にお墓詣り、神社への参拝を実施しています。そうしないとせいぜいいくのはお盆、年末年始くらいになってしまいます。習慣化することで儀式としています。
お経は毎日上げていますが、これは先祖供養ではなく、感謝の気持ちを表し、感謝の時間を捧げている気持ちで行っています。
その点でいえば親鸞聖人はすごい人だなと思います。 両親の弔いはしないと宣言した方ですから。
それは本当にそう思います。我が家では子供たちは自分の思い通りに生きているので、家を継ぐという気持ちもないし、私も継がせる気持ちもないので問題ありません。
そうなると仏壇の処分、お墓を処分することなっていきます。終活ですねえ。
話はそれましたが、いかに何に時間を費やしたのかが大切ではないかと思うわけです。 先祖供養にお経をあげるのはたった毎日3分ですが、10日で30分、一か月で90分、一年で18時間です。
現代はお金が中心に回っていますが、本当に平等に与えられているのは時間だと思うわけです。
家族のある方は子供たち、配偶者との時間をどれだけ作ったのかが重要だと思うわけです。
またまた話がそれてしまいましたが、和多志は今この知能でいえば両方使っているように思います。
でも自分でもこれはパターン化しているなと思うと、違うお店にいったり、通り道を変えてみたりしています。そんな小さなことで十分だと思うのです。
またパターン化も伝統まで高めることができればまたまたこれは素晴らしいことだと思います。
是非、毎日、毎時間脳をさぼらせず、どんどん刺激を与えて脳を混乱させてあげてください。
そうすれば認知症になる暇はないかと存じます。