BeとDo

BeとDo

 

このBEとDOの話は私が外国に行って感じたことであります。どうしても日本に居ると日本人しかいないのでBeの部分がどうも抜け落ちている気がします。何かをする前に自分がなんであるかこの部分が日本人は無意識になっているのかなと感じました。この内容は実に言葉にし難く感覚的な話なので伝わりにくいと思いますが書きます。

 

私が行ったのはアメリカですが、自分が何者であるかという部分においては非常に自己認識しされているなと感じました。

 

日本人はどうかというと、和多志は父親である。和多志はサラリーマンである。和多志は恋人である。このような。大前提。が抜け落ちていると思います。 もっと以前に和多志は日本人である。この日本人という概念が。日本に住んでいる限り必要ないからであると思う。しかし、海外に行けば、特に多民族国家であればあるほどアメリカはその代名詞でありますがヨーロッパ系の移民、アフリカからの黒人、南米からの移民、アジア系からの移民、いろんな国から移民を受け入れて成り立っている国家です。となると目の色、髪の毛の色、肌の色、話す言葉。みんな違ってきます。このような環境に居れば、私は日本人であるという概念は強く刻まれることでしょう。

 

この感覚がなければ何が起こるのか?それは自分と他者との違いについて目がいくようになります。自分との共通点を探すのではなくて自分との相違点を探し行くと思います。

 

しかし、いろんな国の人、色んな週間の人が居る世界では何が起こるかというと、違うことが当たり前であるので相違点ではなくて類似点を探すようになるわけです。この類似点を探す点においては、日本人は特に不得意ではないかと私の感覚では思うわけです。 たとえば身長という概念は背が高い人や低い人がいるから存在できるのであって、身長が150cmで一定であれば、身長という概念は不要になるようなものです。

 

この点だけが和多志はこの日本人における唯一の修正した方がいいかなあと思う点です。経験したり、意識すればできることであって、意識して類似点を見つけるようにすれば、何ら問題はないかと考えています。

 

この日本人特有の点ではないかと。類似点を探すのではなく、相違点を探すという特徴においては。この相違点を見つけることばかりやっていると、何が起こるかといえば、いじめが起こったり、創造性の欠如。前例主義事なかれ主義になっていくんでしょう。これから日本もある意味急速に鎖国解放して違うことが当たり前ということを認識すれば相違点ではなくて。類似点を見つける民族に変わっていくのではないかと思います。