幸せの定義とは何か
幸せの定義とは何か
宗教ではあなたは幸せですかと聞かれるかもしません。 幸せって実に不思議な言葉と思います。 和多志は仕事柄、唯物主義ではありますが、時には直感人間です。 ですから第3社的に測定できるのかどうかというのは大変重要に感じています。
車を持っている、大きな家に住んでいるということから、大好きな人と結婚している、子供もいるみたいな、昭和の幸せの階段を上っていくような道を歩んでいるのが幸せかどうかです。
唯物主義ではこれは第3社的にみて幸せに見えるでしょう。 しかし本人が幸せかどうかは不明です。
周りの人がうらやむような生活をしていても、幸せを感じないという人もいます。
逆にそういったものを手に入れていなくても、幸せというケースもあります。
いったい幸せとは何なんでしょうか。
これは和多志の主観ですが、幸せは主観的なものであり、だれかに決められたり、測定できるものではないというのが結論です。
幸せはおそらく目に見えない世界、唯物主義ではなく、眼に見えない心が満たされている状態ではないかと感じています。
心なんて言葉はありますが、人体でこれが心ですと示すことができません。 心療内科という言葉がありますが、心は医学的に説明できないのです。 場所もわかりませんし。
では心が満たされているというのはどういうことでしょうか。
心を満たすためにには何が必要なのでしょうか?
お金、物品ではないことは間違いないです。 お金はたくさんあっても邪魔にはなりませんが、お金持ちはお金持ちでストレスがすごいようですよ。 和多志はお金持ちになったことがないので、わかりませんが。 有名にならず、ひっそりお金持ちなるのが一番かもしれません。
ではなんなのか。 それは人との関係ではないのかな。
一生のパートナーに出会えるのかどうか。 それは異性に拘らないと思います。 ビジネスパートナーかもしれませんし。
夫婦かもしれませんし。親子かもしれません。
それとあと感じるのはいかに「有難い」という感情が湧き出るかどうかではないかと感じます。 蛇口から水でて有難い。
目が見えて有難い。 おしっこがでて有難い。 うんこがでて有難い。歩けて有難い。 ごはんがおいしく食べれて有難い。自分が生きている中で、有難いことは多々あります。
自分の健康がいかに素晴らしいものかを知るためには、病気になるとよく理解できます。
和多志も足を怪我して、1か月くらいびっこひいていましたので、よく理解できます。
おしっこがでなくなって、透析になれば、週3回病院通いです。 透析しなければ尿毒症で3日で死んでしまいます。
體は無言で一生懸命働いてくれています。 無報酬で。 體にとっての報酬はおそらく感謝でしょう。
歩けて当たり前、水がでて当たり前、震災とか当たり前なことが当たり前ではない時に、有難いと思うわけです。 日本語の素晴らしい言葉。「ありがとう」 英語ではTHANK YOUとなりますが、そんな生易しい内容ではないのかなと感じます。
幸せはそうでない状態がつづき、そうである状態になった時に、感じるものでしょう。
例えば空腹が3日も続いたら、そりゃご飯は何を食べてもおいしいだろうし、提供してくれた人に、涙を流して感謝します。
いつでも食事ができる現代では、ご飯を食べるだけで泣けるほど感謝する人は皆無でしょう。
和多志は仕事柄透析患者さん、がん患者、胃がない人、認知症の患者さんに日ごろお目にかかっているので、自分がいかに恵まれているのかをよく認知できます。 実にありがたいことです。
こういった出会いがなければ、何が何でも当たり前になり、もっともっと教にどっぷりつかり、いい車、でかい家、高い収入を目指していたことでしょう。
また最近感じるのは、いかに人のお役に立てることかなと感じます。それも自分が得意、好きな事でお役に立てることです。
この状態はいくら仕事をしていても、まったく苦ではなく、楽しんで仕事をしているので、長時間労働、休日は不要です。
遊んでいるのか仕事をしているのかよくわからない状態です。さらにそれでお客さんが喜んでお金まで頂くというのはまさに「有難い」の何物でもありません。
幸せは他人に決められることではなく、どんな仕事でも、どんな生活していても、何をして何を食べていても、自分が幸せと感じることができればそれは幸せだと和多志は思います。
どうぞご自分で幸せの定義をしっかり決めて、誰に何を言われようと幸せと感じていただければよろしいかと存じます。