ないものねだり
ないものねだり
先日背が低い女性から、もっと身長があったらなあということを言われました。 物欲なら買えば済みますが、身體の欲というのは整形とか手術とかしない限りどうにもならないです。
でも思考を変えればなんとかなるかと思い、人はないものねだりするのが世の常で、人は小さいものはかわ良く見えるものですと説明したら、小さくでもいいんだと目がキラキラしてきました。
大きな女性は大きな女性で悩んでいるものですし、小さい女性はそれはそれで悩んでいるわけです。
第三者的にみれば、男性が女装している知り合いがいますが、女子レスラーみたいですから、かわいいとは思えないです。
しかし成人しているのに背が低く、小さな女子はかわいらしいなと思います。
猫だって子猫、子犬、小人など一般的に小さいものはかわいいと認識します。
人はどうしてもあるものよりないものに焦点が当たってしまいます。 あるものは当たり前になってしまい、あたりまえですから、感謝すらないのです。
でも體の細胞1個1個は決して褒められることもなく、給料もありませんが、血球、免疫細胞、心臓の細胞、脳細胞、筋肉細胞、胃の細胞など60兆個の細胞が文句も言わず、一所懸命働いては死んでいっています。
この無償の愛の塊の細胞1つ1つに存在に注意をむけて感謝した方がいいのではないかと思います。
多くの方は病氣になるとこのあたり前であったことが当たり前ではないことに氣が付きます。
そうなんですね。 そうであることを認識して、知るためにはそうではないことを体験しないとわからないのです。
健康を知るためには病氣になる必要があるのです。 変な話ですが。 健康であることは当たり前ではないんです。
当たり前であることが当たり前ではないことにいかに氣がつけるか? これはなかなか難しいことです。
和多志も自分の当たり前のことに注意して当たり前ではないことを1つ1つ確認していくようにしてます。