いまだに実現しない小国寡民思想
いまだに実現しない小国寡民思想
小国寡民は老子が唱えた考えかたですが、その背景は以下の通りです
春秋戦国時代の混乱と、それに対する深い反省・批判があります。
1. 歴史的背景:春秋戦国時代の混乱
老子(6世紀頃とされる)は、周王朝の衰退と、諸侯が覇を争う「春秋時代」の末期に生きたとされています。
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各国が覇権を競い、戦争が絶えず、多くの民が苦しんだ。
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都市国家が巨大化し、中央集権が強まり、法や刑罰が厳しくなった。
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富と権力を求める争いが社会に混乱と疲弊をもたらした。
このような社会状況に対して、老子はそれを正そうとする「儒家」の道徳主義にも懐疑的でした。
2. 道家の基本思想:「無為自然」
老子の根本思想は「無為自然(むいしぜん)」、つまり、
自然のままに、作為をせず、あるがままに任せるのが最善
という立場です。
これに基づくと、大国のように強力な軍隊や制度で民を統制することは不自然であり、かえって混乱を生むと考えられます。
3. 『老子(道徳経)』の小国寡民の章
道徳経第80章ではこう述べています:
小国寡民。使民有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟輿、無所乗之。雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之。甘其食、美其服、安其居、楽其俗。
(訳:小さな国で、民も少なく、便利な道具があっても使わず、武器があっても並べず、戦わず、移動せず、素朴な生活を楽しむ)
これは、文明の発展や覇権主義から距離を置き、人々が質素で平和な生活を楽しむ社会の理想を描いています。
4. 老子の批判対象:過剰な文明と権力
老子は、国家の大規模化や技術の進歩が人々の幸せを高めるどころか、欲望や戦争を生み、自然から離れる原因と見ていました。
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人口増加 → 欲望増加 → 戦争・争い
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権力増大 → 統治強化 → 民の自由が奪われる
その反動として、小さく、質素で、争いのない社会を理想としたのです。
ではこの思想を実現している国家はあるのかというとほぼありませんが、近いものを体験したことがあります。それは沖縄の久高島です。 以前訪れたときは島の人口は200人。 この200人は誰がどこの人なのか知っています。
道端に軽自動車が止まっていた時に、あの車は誰の車で何しに来ているのか知っていますとガイドの方がいっていました。
現代ではエコビレッジが小国寡民に相当するのではないでしょうか
組織は大きくなると影ができてきます。知らない人もどんどん増えていきます。 ここがポイントで、悪意のある人が入ってくると腐敗を生むことになります。 贈収賄、横領などの不正がでてきます。そうなると法律、ルールができてくる。
こうなると鼬ごっことなります。この隠れる場のある社会ができてしまうことが悪意のある人にとっては最高の環境になります。
老子が「隠れる場のある社会」を警戒していた理由
老子が「大きな国家」や「多くの民」「豊かな技術」「高度な法制度」を否定的に見たのは、それらが:
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欲望を刺激する(富・権力・名声)
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競争と欺瞞を生む(虚飾・策略)
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人を“自然”から遠ざける(本来の在り方を失わせる)
からであり、最終的にはその虚偽性に乗じて、悪意を持った者が暗躍できる余地が生まれるからです。
👉 老子にとって「陰ができる」ということは、本来なら見えるはずの真実が隠される構造を意味しており、それこそが「道(タオ)」から外れた状態です。
3. 腐敗者にとって「明るみに出ること」が最も困る
ご指摘のように、悪意を持った人間にとって最も恐ろしいのは、「顔の見える関係性」や「透明性のある空間」です。
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小国寡民のように、社会が小さく、道具も武器もなく、皆が素朴に生きている世界では、「欺くこと」自体が成立しにくい。
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だからこそ、悪意のある者は「巨大で匿名的な組織」や「複雑な制度」の中に潜り込む必要があるというご指摘は、非常に現代的かつ老子的でもあります。
4. 老子の視点から見た「腐敗の構造」
老子の時代にもすでに「礼・法・刑罰」で人を治めようとする動き(儒家・法家)がありましたが、老子はこう述べています:
「大道廃れて仁義あり。智慧出て大偽あり。六親和せずして孝慈あり。国家昏れて忠臣あり」(第18章)
つまり、
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大いなる道(自然の理)を忘れたとき、仁義などの偽善が現れる
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智慧(テクニック)が出てくると、大きな偽りも生まれる
と述べ、文明・制度・知識の進歩そのものが、腐敗と欺瞞の温床になると批判しています。
人間社会は1000年経っても変わらないのが実に悲しいことです。