静の動
静の動
この言葉は中学の時に先生から聞いた言葉でいまだに引っかかっている言葉です。
なんとも意味深な言葉だし、いたるところに静の動があるよなって。
以下は哲学的に考えるとこうなるというまとめです。
1. 存在論的視点:「存在するとは何か」
● 「静」とは、見える形での変化がない存在状態
● 「動」とは、エネルギーや変化が顕在化すること
しかし、「静止している=存在しない」ではありません。
たとえば、アリストテレスは「運動(変化)とは可能態から現実態への移行」と言いました。
つまり、静かに見える存在も「可能態としての動」を秘めている。
→「静の動」は、**外に現れていないが、内に秘めた運動(ポテンシャル)**と捉えられます。
2. 東洋哲学(特に禅・道教)の視点:「無為自然」「無の力」
● 禅では、「動中に静あり、静中に動あり」と説く。
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座禅の中で動かずとも、心は澄み、世界とつながっていく。
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無為の中にある大きな力を重視する。
● 道教の「無為自然(むいしぜん)」
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人為的に何かを操作するのではなく、自然の流れに任せることで最大の効果を得る。
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静寂に見えるもの(例えば谷、空、風)は、実は宇宙の動的なリズムを映している。
→「静の動」とは、外から操作しなくても内的・自然な変化が起きていること。
3. 弁証法的視点(ヘーゲル的な発展論)
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ヘーゲル哲学では、「静止」と「運動」は対立しつつも、**止揚(アウフヘーベン)**によって統一される。
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表面上は静かでも、内には矛盾や緊張があり、それが次の運動(発展)を生む。
→「静の動」は、変化の準備段階である緊張状態。一見静かだが、矛盾と力が蠢いている。
4. 意識と精神における「静の動」
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マインドフルネスや瞑想では、「ただ坐っているだけ」でも心は気づき、感じ、解釈している。
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これは「反応しないこと」が目的ではなく、「反応を見つめている」という内的な動き。
→ 静けさ=鈍さではなく、最も繊細な感受性の発露でもある。
和多志はどうしても植物と関連が深いので植物の静の動を感じてしまいます。 人間の活動からすると植物は止まって見えます。 しかし植物の体内では細胞が活発にうごき、光合成をおこないさまざまな化学反応を起こしているのです。まさに静の動です。
これは人間の體でもそうです。寝ていても細胞たちはせっせと働いています。臓器も動いていないようで、肝臓は活動しています。脳も活動しています。
人間や動物は個体として活動ができて、さらに静の動があります。
植物は移動はできませんが、時間の流れが違うとしたらどうでしょう。 人間が24時間で活動しているとしたら、植物は72時間で活動しているとしたら?
人間と植物の活動時間をそろえた場合、植物も常に動いているように見えるのかな。